池田人物誌

2009年10月9日~11月29日、池田民族博物館にて池田人物誌が開かれ、帝人目黒研究所の前身である目黒研究所の創立者、目黒庸三郎が紹介されました、同会には、阪急電鉄創立者・小林一三氏、日清食品創立者・安藤百福氏など、池田を代表する実業家の功績も記されていました。

細菌学者・免疫学者 目黒庸三郎(1879~1947)

目黒庸三郎は、生物学的製剤の研究開発とその生産に生涯をかけ、ジフテリアや日本脳炎などの優延防止に大きく貢献しました。

明治12年(1879)に宮城県伊具郡丸森村(現丸森町)に生まれました。同43年大阪府立高等医学校(現大阪大学医学部)卒業後、東京杏雲堂病院生化学研究室で佐々木隆興に師事し、翌年伝染病研究所に移り、細菌学の大家志賀潔のもとで細菌学ならびに免疫学を修めました。

その後志賀に従い北里研究所を経て、大正4年(1915)大阪血清薬院に技師長として迎えられ、居を室町に構えました。

世界に認められた目黒研究所

大正11年から同13年まで、細菌学、とくにジフテリアの研究のために渡欧し、ベルギーとパリのパスツール研究所で、のちにノーベル医学生理学賞を受賞したボルデー博士やラモン博士に研究指導を受けました。
帰国後、阪神急行電鉄の取締役速水太郎氏に物心両面に支援を受けて、大阪市北区木幡町(現北区西天満)に大阪実験治療研究所(昭和12年目黒研究所と改名)を設立しました。目黒は、ここでジフテリア血清・コレラワクチン・日本脳炎ワクチンなど生物学的製剤の開発改良に尽力し、世界に認められる予防医学研究所に発展させました。

ところが、昭和20年(1945)3月の大阪大空襲によって研究所が灰塵に帰し、池田市神田の目黒研究所附属免疫場にすべてを移すことになりました。
しかし、同22年、免疫場も火事に見舞われ、目黒は引き続く災害と心労の為体調を崩し、同年12月に亡くなりました。この難局に、長男の庸雄が目黒の遺志を引継ぎ、翌年満寿美町に目黒研究所を再興しました。目黒は、伝染病の予防ならびに治療に関する多大な功績によって、従四位動四等旭日小綬賞が贈られました。